旧空知炭鉱倶楽部(こもれびの杜記念館)
北海道のほぼ中央に位置する歌志内市。周囲を神威岳をはじめとする山並みに抱かれ、東西にはヤマメが棲む清流、ペンケウタシュナイ川が流れる。かつて石炭産業の中心地として栄えたこの街の名は、アイヌ語のオタ・ウシ・ナイ(砂のたくさんある沢)に由来する。
市内には今も、炭鉱都市時代の栄華を象徴する建物が残されている。上歌地区にある古い映画館、旧上歌会館(悲別ロマン座)、そして、今回訪ねた本町地区にある北炭の旧迎賓館、旧空知炭鉱倶楽部(こもれびの杜記念館)である。
旧空知炭鉱倶楽部の起源は、1897年(明治30年)、北海道炭礦鉄道株式会社(北炭)が空知炭鉱の社員合宿所として建てたものに遡る。ハーフティンバー(※1)風の本館と数寄屋造り(※2)の別館からなるこの施設は、幾多の変遷を経てきた。当初は本館のみだったが、1949年(昭和24年)に別館が竣工。1954年(昭和29年)には接遇専用の迎賓館となり、会社幹部や高級官僚の接待などに利用されたほか、1950年(昭和25年)には東本願寺の法主ご夫妻が宿泊された記録もある。
1995年(平成7年)、空知炭鉱の閉山に伴い歌志内市が所有。修復工事を経て、1998年(平成10年)より、こもれびの杜記念館として一般公開されていた。
修復から歳月が経ち、傷んだ箇所が散見されるが、随所に職人技が光るこだわりの内装は今も色褪せていない。特に1949年完成の別館は、茶室、檜の浴槽、網代天井、意匠を凝らした洗い出しの土間など、「北炭社長肝いりの大工職人二名を東京から招き、月日と費用に糸目をつけずに建設された(※3)」と言われる通りの見事な造りである。
記録を紐解くと、この別館は1940年(昭和15年)頃に着工し、完成まで約9年という異例の歳月を要している。あくまで個人的な推測だが、戦時下の木造建築物統制規則(1939年施行)や資材統制による物資不足、さらには熟練大工の戦時動員などが重なり、工事の中断を余儀なくされたのではないだろうか。
しかし、そんな困難を乗り越え、諦めることなくこの数寄屋造りを完成させた事実に、当時の北炭関係者の並々ならぬ執念を感じる。着工当時の1940年前後、北炭(北海道炭礦汽船株式会社)は島田勝之助が取締役会長を務め、その部下には後に社長となる萩原吉太郎がいた。彼らは北炭に移る前、三井財閥の持株会社である三井合名会社に籍を置いていた人物だ。
ここで興味深いのは、島田が三井合名会社の理事に就いた1935年(昭和10年)当時、同社の相談役には益田孝がいたことである。益田は自らを「鈍翁」と号し、「千利休以来の大茶人」と称された人物だ。益田と島田、そして萩原の関係が、別館の建築にどれほど影響したのかは定かではない。だがそこには、何か数奇な巡り合わせを感じずにはいられないのである。
茶の湯は、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉らによって政治の道具として利用され、昭和に入っても吉田茂や佐藤栄作ら政財界人の交渉の場として機能してきた。1955年(昭和30年)に北炭社長へ就任した萩原吉太郎もまた、「北炭の天皇」「石炭の鬼」と呼ばれた昭和を代表する政商であり、鳩山一郎をはじめ多くの大物政治家と交流を持っていた。
そらち炭鉱遺産散歩(※4)には、「北炭の重役や中央省庁の高級官僚が頻繁に訪れ(中略)北炭のドンとして長く君臨した『石炭の鬼』故萩原吉太郎氏もかつて、ここによく立ち寄った」と記されている。萩原の社長就任以降、日本の石炭産業は石炭から石油へのエネルギー転換の波に飲まれ、合理化と閉山、そして悲惨な事故という激動の時代へと突入する。萩原にとってこの建物は、まさにその最前線における重要な交渉の舞台だったのだろう。
別館には「空庵」と名付けられた茶室がある。私が訪れた11月初旬、空庵の円窓の向こうには、庭園の見事な紅葉が広がっていた。茶室の円窓は禅における「円相」に由来し、真理や宇宙を象徴するとされる。また「己の心を映す窓」という意味も持つという。かつて萩原吉太郎たちの眼には、この円窓を通してどんな景色が映っていたのだろうか。静寂に包まれた空庵には、そんな想像を掻き立てる独特の空気が漂っていた。
追記(2025.12.28)
萩原吉太郎と数寄屋造りの建物の関係について何となくモヤモヤした気持ちが残っていたのでさらに調べてみた。幸い、国立国会図書館サーチの本登録が完了し、古い文献もネット上から読むことが出来た。結論から言うと、萩原と建物の直接的な関係を裏付ける具体的な記述は見つからなかった。しかし、その結びつきを強く示唆する所見がいくつか見つかったので、ここに追記する。
萩原の価値観の根底には仏教や神道への深い信仰があること、そして彼が身を置いた三井家が茶の湯など日本の伝統文化の保存、継承に力を注いだ事、この二点が大きく関係しているのではないだろうか。萩原の母方の実家は、三十数代も続く神官の家系であった。また彼自身、大学時代には慶應義塾仏教青年会に身を置いている。著書の中で萩原はこう振り返っている。「過ぎ来たった長い生涯を顧みると、私は種々様々な事に遭遇し、新聞、雑誌でいろいろ取沙汰されたが、悩んだことは少なかった。どちらかといえば強く生き抜いたと思っている。それは五十有余年、仏数の数えがいつか心に沁みこんでいたのだと思う(※5)」。
また、萩原の日本庭園、とりわけ「庭石」への造詣は趣味の域をはるかに超えていたようだ。彼は「自然と人工の結合と調和によって生れる庭園も大きな芸術で、我が国特有の日本庭園の美は世界に誇るべき伝統ある芸術である(※5)」と語っている。萩原と庭石の出会いは1940年頃に遡る。浅草向柳原(現在の台東区浅草橋)にあった江戸名園、蓬莱園(松浦家の別邸庭園)の競売に島田勝之助と出向いたのがきっかけだった。その際、島田が落札したのが「烏帽子岩(えぼしいわ)」である。これは松浦侯が平戸から運ばせたといわれる名石で、後に萩原が譲り受けることになった。萩原はさらに、雑誌「経済往来」(※6)のなかで石庭について詳しく論じている。当時三井家が所有していた国宝の茶室「如庵」にある蹲踞(※8)への言及や、千利休が愛した灯籠が細川幽斎の墓石になったという逸話、利休自身の墓石も実は灯籠であったという噂など、その知識は実に細部まで及んでいた。
「この世を去れば一切空である。成功してもしないでも、大きな事をやってもやらないでも、死の前には煩悩に過ぎない(※5)」。萩原はそうも述べている。「空」の思想は禅の土台とも言われ、ブッタの言葉にも「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。(※9)」がある。茶室「空庵」の命名には萩原のこうした死生観や哲学が込められていたのではないだろうか。
[解説]
(※1)ハーフティンバー:梁、柱等の構造材を外観に露出させ、その間を漆喰・レンガ等の壁材で充填する構法で、中世ヨーロッパで多く見られた木造建築である。日本では、通常の木造軸組の外壁に装飾的な化粧梁、柱を貼り付けた木造建築が主流である。
(※2)数寄屋造り:日本の伝統的な茶室建築の手法を取り入れた建築様式である。自然素材を活用し素朴で洗練された空間を作り出している。
(※8)蹲踞(つくばい):日本庭園や茶室の庭(露地)に置かれる低い手水鉢(ちょうずばち)のことで、客人が茶事の前に手や口を清めるためのもの。
[撮影協力、資料提供(敬称略)]
ウタピリカ / 歌志内歴史研究会代表 佐藤友美
歌志内市役所産業課・地域おこし協力隊 石井葉子
歌志内市教育委員会
[引用元、参考資料]
(※3)こもれびの杜記念館資料
(※4)そらち炭鉱遺産散歩(北海道新聞空知「炭鉱」取材班 編著)
(※5)一財界人、書き留め置き候(萩原吉太郎 著、講談社、1980年)
(※6)庭石の思い出(経済往来、1953年)
(※7)昭和の庭(岩城亘太郎 著、鹿島研究所出版会、1968年)
(※9)ブッダのことば スッタニパータ(中村元 訳、岩波文庫)
・私の履歴書(経済人、萩原吉太郎ほか)(日本経済新聞社)
・昭和のマンモス2 萩原吉太郎 「最後の政商」が見た保守政治(スマイルeBook)
・北海道炭礦汽船(株)『七十年史』(渋沢社史データベース)
・旧三井物産を創設し、貿易立国の礎を築き上げた文化人 益田 孝(三井広報委員会)
・茶室「如庵」(三井広報委員会)
・北海道建築物大図鑑(北海道新聞社)
[サイト内関連情報]
旧上歌会館(悲別ロマン座)
大正館と画家 本城義雄
旧北炭 鹿ノ谷倶楽部(夕張鹿鳴館)
[旧空知炭鉱倶楽部(こもれびの杜記念館)]
住所:歌志内市字本町74番地4
撮影:2025年11月06日
機材:Canon EOS 5Ds + EF8-15mm F4 L Fisheye@15mm + Nodal Ninja 4
アプリ:Lightroom, Photo Shop, PTGui Pro
コメント ( 4 )
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見事な撮影と編集、きっちりした歴史解説は拝見して圧巻でした。素晴らしいスキルと熱意をお持ちの方が歌志内市に目を向けられて支援なさっていることに感動しました。
美観の意地はともかく、地盤沈下が生じて基礎が侵されつつあるので、最低限の延命修復だけでも早急にできればいいですね。
ここまで素晴らしい詳細なご紹介をしていただいているので、ご覧になった関係者は「一度は修復して一般公開までされていたものを行政の資金難で解体されても仕方ない」とは思わないのではないでしょうか。歌志内市や市民に頼るのは厳しいので、三井物産や空知炭鉱OB会などにまず本サイトをご案内するところから始めれば、いかがでしょうか。自然に寄付やクラウドファンディングの話へ盛り上がってくるような気がします。
森本さま、コメントありがとうございます。
今回の記事は、歌志内市のウタピリカ / 歌志内歴史研究会、地域おこし協力隊および歌志内市教育委員会の方々のサポート(撮影協力、資料提供)があって出来上がりました。とても熱心で情熱のある方々です。個人的には維持保全についてはあくまで歌志内市民が中心で、そこに寄付やクラウドファンディングの形で外部からの援助が加わるのが理想的と感じます。その時は私も非力ながら参加させて頂きたいと思います。今回の取材を通じ、この建物は歌志内にとって、とても貴重な文化遺産だと感じました。それにしても過分なお褒めのお言葉ありがとうございます、とても励みになります ^^
ウタピリカの佐藤友美さまからご紹介いただきましたが、本日の北海道新聞「道央ワイド版」で横谷様が撮影された炭鉱遺産パノラマ作品の「悲別ロマン座」と「こもれびの杜 記念館」が大きく報道され、本当におめでとうございます。
横谷様の熱意と高いスキル、細部へのこだわりが凝縮された素晴らしい作品が世に広く認知され、遺産を訪れる方々が一人でも増えて、保存運動に発展することを願ってやみません。
どうか今後とも引続き、ご活躍いただきますよう、お願い申し上げます。
森本さま、ご丁寧なコメントありがとうございます。
微力ですが、多少なりとも歌志内の発展や炭鉱遺産保存のお力になれたらと思っています。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。