旧上歌会館(悲別ロマン座)
北海道のほぼ中央、かつて日本のエネルギーを支えた炭鉱の街、歌志内市。周囲を神威岳等の神々しい山々に囲まれ、東西を石狩川の支流でもあるヤマメの棲む清流、ペンケウタシュナイ川(アイヌ語で「砂のたくさんある沢」という意味)が流れる自然豊かな場所である。ここは丁度去年の秋訪れた画家 本城義雄さんの私設資料館 大正館の在る街でもある。
初夏の6月、丁度ルピナスが盛り頃、街の東側、上歌地区にある古い映画館の建物、旧上歌会館を訪ねた。この会館は住友上歌志内鉱で働く職員たちの厚生施設として1953年に開館した建物である。
設計は狂気とか異端の建築家と呼ばれていた渡邊洋治である。渡邊はそのエネルギッシュな仕事ぶりから「マジラ」と呼ばれていた。「マジラ」とは、渡邊が師匠である吉阪隆正のアシスタントをしていた当時、研究室の院生たちがつけたあだ名で、渡邊洋治建築作品集にその由来について「怪獣が流行している時につけられたこの名は、彼がマジックで見る間に図面を仕上げていったからである」と書かれている。
旧上歌会館は、そんな渡邊が30歳の頃、まだ久米建築事務所に在籍していた時期に手がけた初期の作品でもある。当時の映画館の建物といえば看板建築のイメージが浮かぶが、当館は木造平屋の切妻屋根で両サイドの石積み壁が一際目を引く個性的な建物である。客席の広い空間を確保するため屋根は木造トラス構造となっている(※1)
竣工した1950年代〜1960年代初頭にかけては丁度日本映画の黄金期と重なる。年間の観客動員数が11億人を超えたこの時代、映画は国民にとって最大の娯楽の一つであった。小津安二郎、黒澤明、溝口健二等、日本が誇る映画監督たちが活躍した時代でもある。
当時、歌志内にも多くの映画館が存在した。住友系の旧上歌会館や住友歌志内鉱会館、北炭系の北炭空知会館や北炭神威会館、松竹座、歌志内東映、大正座、 歌志内錦座などなど(※2、3)。
しかし、これら炭鉱街の映画館の賑わいもそう長くは続かなかった。1960年代に入ると日本のエネルギーの主役が石炭から石油に移行し、時を同じくして娯楽の主役も映画からテレビへと移り変わったのである。1962年には白黒TVの世帯普及率は90%近くに達していた(内閣府統計資料)。
こうした時代の流れの中で歌志内にあった映画館は1960年代に次々に閉館に追い込まれることに。旧上歌会館も炭鉱の閉山となった1970年前後には閉館となったのである。
閉館後はしばらく放置され、客席の屋根の一部が倒壊するなどして廃屋同然の状態であった。しかし、1977年には山田洋次監督・脚本、高倉健主演の北海道を舞台としたロードムービー「幸福の黄色いハンカチ」のロケ地として、また1984年には「悲別ロマン座」の呼び名の元となった倉本聰脚本のTVドラマ「昨日、悲別で」の舞台となり再び当館に光が当たることとなる。1980年代後半には市内の若者を中心に保存運動が始まり、1987年には倒壊した観客席部分を除いた形で改修され現在の姿となった(※4)。
映写室には現在も当時の映写機(高光工業社製 Royal カーボン式映写機)が2台、東京芝浦電気製 映写用ガラス水銀整流器がある。このガラス水銀整流器、通称「タコ」と呼ばれていた機械で交流を直流に変換するもので今で言う真空管、半導体であろうか。中にはタコのようなガラスの装置が入っていて稼働中は青白い怪しい光(アーク放電)を放っていたはずである。また、映写機が2台あるのは、当時の映写用フィルム(35mm)が1巻きで約10分〜15分程度の尺しかなく、1本の映画を上映するには10巻ほどのリールを交換しながら交互に稼働させる必要があったためである。余談になるが、高知県には今でも映写技師の「流し込み」という技術を使い、映写機1台で上映を続ける映画館が存在する(※5)。また、福島県の本宮映画劇場ではガラス水銀整流器が現在でも活躍中である(※6)。
大正館の館主で画家でもある本城義雄さんに当時の旧上歌会館についてお話しを伺った。映写機については「今入ってる機械は空知(空知会館)から持ってきたもので、当時のものは壊されちゃった。」とのこと。また「客席は確か5〜6人座れる木製で背もたれのあるベンチタイプで小豆色みたいな色が塗られていました、当時としては洒落た感じでしたね。当時の入場料は50円程度だったかな、映画が変わるたびによく観に行ったものです。」
当時を振り返り「僕は映写技師もやったことがあるんです。看板書きのアルバイトで登別の映画館に行ったんですよ。看板書きのつもりで行ったんですけど、映画館の仕事は薪割りから映写技師まで何でもやらされました。」と懐かしそうに思い出を話してくれた。
かつては観客席だった場所は現在、屋根のない開かれた空間となっている。ここに立つと、映写室には小窓が6個あることに気づく。2つは映写用の窓、その他は映写技師の確認用の小窓であろう。映写技師はきっとこの小窓から観客の歓声を聞き、喜怒哀楽を感じ取ったことだろう。
この小窓を見ると、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の少年トトを思い出す。舞台はイタリアのシチリア島、時代も丁度同じ頃、映写技師アルフレッドと映画好きの少年トトとの友情の物語である。監督・脚本ジュゼッペ・トルナトーレはインタビューで「60年代までの世代にとっては映画館は、まさに成長の場だったんだ、愛が生まれたり、ビジネスや世の中を知る、そういう場所だった…」と語っている。
一方、旧上歌会館について市の地域おこし協力隊・石井さんの資料(※7)によると「連日大盛況であったとのこと。娯楽のための劇場としてだけではなく、労働組合の集会、炭鉱の文化祭、また炭鉱事故の殉職者の葬儀などにも使われ当時の炭鉱町の人々の喜怒哀楽の舞台となった場所でもある。」とのこと。
戦後、日本のエネルギーを支えた「黒いダイヤ」の石炭。そこで働く炭鉱夫たちの現場は、常に危険と隣り合わせの過酷な環境であった。そんな彼らにとって「映画館」とは、単なる娯楽の空間を超えた特別な存在だったに違いない。炭鉱の労働で疲れ切った心と体は、この空間を通り、リフレッシュし、明日への希望を膨らませたことだろう。
[撮影協力]
歌志内市役所産業課ふるさと振興グループ
歌志内市役所産業課・地域おこし協力隊
ウタピリカ / 歌志内歴史研究会
[引用元、参考資料]
※1:歌志内市役所地域おこし協力隊・石井葉子さん経由で株式会社久米設計よりお借りした資料 1953年刊行の雑誌「建築界」12月号より
※2:seesaawiki消えた映画館の記憶
※3:歌志内市史(歌志内市史編さん委員会編集、歌志内市発行)
※4、7:歌志内市役所産業課・地域おこし協力隊・石井葉子作成資料
※5:映写機上映の技術と流し込みの技 高知のお山の映画館「大心劇場」(youtube)
※6:場末のシネマパラダイス(田村優子著、筑摩書房)
[サイト内関連情報]
大正館と画家 本城義雄
[旧上歌会館(悲別ロマン座)]
住所:北海道歌志内市上歌
撮影:2025年06月18日
機材:Canon EOS R + EF8-15mm F4 L Fisheye@15mm + Nodal Ninja 4
アプリ:Lightroom, Photo Shop, PTGui Pro
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